今日は1月17日、何故だか早く目が覚め、ポンカンとは余り関係のないことを書かせてもらおうと思います。
いつも以上に冗長にな話になりましたので、物好きな方以外はお読みいただかないようお願いいたします。書いては止め、止めては書き、を繰り返し、投稿を迷いましたが、もう日付が変わりそうなので、エイヤー、と前後を考えずに投稿いたします。
30年前の1月15日、16日は連休でした。ポンカンは豊作で取り入れの最終段階となり、16日は満月と車のヘッドライトを利用し、夜8時ごろまで作業を続けたと記憶しています。手伝いに帰っていたのは姉(三女)と義兄)とその子供たちと姉(次女)、そして小生。翌日にはそれぞれの仕事が待っているので、食事もそこそこに、義兄のワンボックスカーで大鳴門橋経由で淡路島の北端まで来て、フェリーで本州の明石市に渡り着きました。明石大橋はまだ完成しておらず、鉄塔に細いワイヤーが通されたばかりだったと思います。西宮市の義兄の住居到着は深夜一時前後で、私は一休みしてから翌日の仕事に備えて京都の自宅へ。いつもは泊めてもらって翌早朝に高速道路を利用して京都に向かうのですが、どういうわけか京都へと急ぎました。
17日早朝、京都でも大きな揺れを感じ、いったん目が覚めたものの、揺れが収まってからまた眠り、結局朝寝坊をしてしまい、始業開始時間直前に職場の門をくぐりました。出勤後、神戸で地震があったと初めて知らされ、臨時休業になるとのことでした。一通りの仕事の整理をしてから帰宅し、報道で震災の深刻さを知らされながらも、睡魔に勝てず眠り込み、目が覚めた時間にはもうスーパーもとっくに閉店した時間でした。連絡もつかず、壊滅状態と伝えられる西宮へ車で向かいますが、近づくにつれて被害の大きさを実感することになり、また、進むのにも時間がかかることになりました。橋が通れなかったり、回り道をしても屋敷の大きな岩が道を塞いでいたりで、義兄宅に着いたのはお昼前でした。義兄の母が大きなケガをしてはいましたが、命に別条のある者はいず、不幸中の幸いと考えざるを得ません。家の中で眠ることはできないので、ワンボックスカーで身を寄せ合って眠ることにしたとのこと。後に震度7エリアに入っているとわかりましたが、周辺のほとんどの家も倒壊し、何かできることはないかと付近の住宅地を歩き回ったものの、電柱はすべて折れて逆vの字となり、段々とガスの臭いが強くなることに気づき、引き返しました。救助を求める声も聞こえず、遠くのサイレンの音だけが響いておりました。一旦京都に戻り、必要なものをできるだけ多く積み込み、往復することになりました。コメは洗ってから袋に詰め、燃料なども準備しましたが、道中で感じたことは、多くの店先に被災対策に利用できそうなキャンプ用品がたくさん並べられているのに、価格は目を疑うほどに高くなっている・・・カセットボンベなどは普段の倍以上に! 被災地で、それまでは割高感があって敬遠していたコンビニ大手が、おにぎりを10円引きで売り始めたのは発災後、それほど日が経たないうちのことでした。困ったときに人間性が出るものですね。高いガスボンベを売っていたスーパーには二度と足を運ばなくなり、コンビニを利用することが増えました。
災害の際、学校や体育館など公共施設が避難所になります。被災後、連絡が取れなかった姉(長女)の家族を探すために三日間休暇をもらい、安否を確認するために近所の学校などを回りましたが、見つからず、すすり泣きの声が聞こえる教室を渡り歩くことになりました。教室には並べられた机の上に棺が置かれていて、ひと教室に八つの棺が並べられていました。それぞれに家族や知人が身を寄せながら嗚咽をもらしている中、亡くなられた方々に申し訳ないと思いながらも、その中に知り合いの顔がないことを祈りながら、灯りもない廊下を歩きました。三日目にやっと長姉の無事が確認できて胸をなでおろしたものでした。
それ以降、週末ごとの炊き出しや避難小屋設営などに参加させてもらうことになりましたが、今でも、ほんのもう少し気を配ることができていたら、と後悔することがあります。体育館などは多くの避難者で、すし詰め状態でした。夜の冷え込みは厳しく、出入り口付近は扉の開け閉めのたびに寒風が吹きこみました。しかし、敢えてその扉付近を選んで横になっている人たちもいらっしゃいました。その多くは高齢者でしたが、立錐の余地もないような状態で、夜分トイレに行くにも周囲に迷惑をかけないように、と考えての選択だったのだろうと思います。トイレに行くには便利でも眠ることはできなかったでしょう。あの時、なぜその出入り口付近だけでも段ボールを使って衝立のようなものを作ってあげなかったのか。ポンカン自体よりも空になった段ボール箱のほうが役立ったかもしれない。一人でできることは取るに足りないことはわかっていても、自分にほんのもう少しの配慮があれば、落とさずに済んだ命があったかもしれないと思うと、ただ手を合わすしかないのです。
・・・ お客様と生産者を結ぶ場であるので、場違いな投稿とのご批判をいただくことになりそうですが、今日は敢えて自分の意見を述べさせていただきました。
人を思う、どこかのCMではありませんが、心掛けたいことです。競争原理と市場原理だけが幅を利かすような世の中になりませんように。
同時多発の塊のような震災でも、どこにどのような人がいる、と分かり合っている地域では助け出された命も少なくなかったと聞きます。湊川の土手に真っ先にボランティアのテントを張ったのは愛知県からやってきたイスラム教の方々でした。崩れ落ちた二階建ての家々を背に、ある大工さんは「通し柱が大切と言えるようになったのは最近のことや。戦後は材木不足でそれどころではなかったんや。」と自責の念とともに呟きました。etc.
人と人との垣根を低くして、職業や宗教、人種も超えて相互理解が支える世の中になりますように願いたくなる1月17日です。