3.11のときは何をしていた?
2022/03/11
3.11のときは何をしていた?
※今日のブログは当時の振り返りです。こちらに書くのはふさわしくないかもしれません。ご興味あれば目を通してくださいm(_ _)m
なかなか振り返ることもなく、遠い記憶になりつつある3.11。もちろん忘れるわけではなく、その時の記憶は鮮烈に残っています。
古い写真をあさっていたんですが、その中からハウスの骨組みの写真が出てきました。
3.11は就農した年度の終わりの月
いきなり大失敗だった1年の最後でした。
1年目はトマトを作るにもハウスもなく、研修終わって就農ギリギリまで農地も確保できていなかった状況。なかなか厳しいものがありました。
そんな時近所の方に耕作放棄地があるから使っていいよと。そこを開墾していまにいたります。
そのお借りした農地に立てたのがそのハウス。中古で手に入れ、知り合いの工務店に手伝いをお願いして少しずつのセルフビルド。
現在トマトを作っているハウスの原型。
3.11はこのハウスを一人でつくっている時。
ネジとかちょっとした部品が足りなくてホームセンターにいました。
それぞれ100個以上のボルトやワッシャーとかをだるま落としを積み上げるように売り場で数え、買い物かごに入れレジ台にのせたときです。
突然の大きな揺れ
棚から商品が落ち、まわりでは叫び声も聞こえていたような気もします。
慌てて外に出ると、看板のついた大きな支柱がぐらんぐらん揺れていて、これは本当にやばいなと震えた記憶があります。
どれぐらいだったんだろう、時間の感覚はまったくなく、とりあえず家に携帯から急いで電話。その当時はスマホではなくまだ携帯(笑)
呼び出し音は鳴るものの、出る気配なし。2度3度試しましたが、突然携帯も通じなくなり、さらに不安を感じたことは否めません。
買おうと思って選んだ商品は名前と連絡先だけ告げ、買いに来るからと預け、いそいで軽トラで家路に。
家から10kmくらいのホームセンター。帰り道も余震が続き、そのたびに車をとめ様子見。
よく覚えてないんですが、住宅街でもブロック塀がくずれていたところはほんの数箇所だったような気がします。
家についてみると、漆喰の外壁にはヒビがはいり、玄関の引き戸は若干歪んだのかちょっと開けにくい。
家に入ってみると戸棚から飛び出した食器が割れまくり。納戸の棚のものも下に落ち、内壁にもヒビ。
そんな中でかみさんとこたろう社長、秘書小麦が無事でホッとしました。
※その時まだ猫2匹は飼っていません。
あまりの揺れで、携帯がなっていたことには気がついていたけど出れなかったとのこと。そりゃそうだ。この惨状を見れば。
不便ながらもいつも通り
幸い停電も断水もなく、その後ずっとテレビを見ていた記憶があります。もちろん映像はトラウマになるレベルのもの。
これからどうなるんだろうという不安しかなく、とはいえ、今やれることを粛々とやっていくしかないと、ある意味覚悟を決めました。
怪我もなく、建物も致命的な損傷もなかった、そしてライフラインが問題なく動いていたのが幸いで、不便ながらも通常通りの生活をできていたような気がします。
同じ那須町でも地域によっては停電や断水もあり、運がよかったとしかいいようがありません。
観光地だけに、その後の春休みは大打撃。
特に危ないわけでもないですが、自粛ムード真っ只中なのに観光にくるお客様もいるわけでもなく。
賑わうはずの春休みがすごく静かでしたね。
こたろうファームは時期的に作物もないので、そういう意味では特に慌てることもなかったのですが、春休みの状況を見て、夏はどうなるんだ?という不安は確かにありました。
仲間が増える
そんなとき、なんとなく、那須高原で仕事をする異業種の仲間が集うようになり、一気に交友関係がひろがりました。
農家、ペンション、レストラン、物販、観光施設、ホテルなどなど、震災後の悲惨な状況を感じていた仲間とのつながりができたのは、まさしくこの時期。
お互いどれだけ助けられたことか。
仕事も暇なので(笑)、頻繁に会い、BBQやったり飲んだり。
状況が最悪なのに、あまり落ち込むこともなくこれから那須高原をどうしようか、という希望に満ちた会話が多かったような気がします。
振り返っても仕方ない、進むしかないと思っていたんでしょうね。
それから11年
那須から離れた仲間もいますが、ほとんどが当時の仕事のまま今現在もがんばっています。
コロナ禍ということもあり、会う頻度は随分減りましたが、今でもたまに一緒に遊んだりします。
当時の話をすることはほぼないですが、同じ境遇で苦労したことはお互い十分すぎるほどわかっています。
その気持が私達を含め、みんなの心の支えになり、このコロナ禍でもがんばろうと思っているのかもしれません。
何かが起きたときは、もう戻ることのできない状況になる場合がほとんど。大なり小なり。
でも、そこにとどまることなく、一歩でも前に進めれば、きっと明るい未来が待っています。
3.11と比較して今がどうとか考えても意味はなく、明日からどうするのか、どうしたいのか、ということを考え、全力で生きていきたいなとつくづく思います。
生きていることに感謝しつつ
生きるための糧をこれからも作り続けます。
※今日のブログは当時の振り返りです。こちらに書くのはふさわしくないかもしれません。ご興味あれば目を通してくださいm(_ _)m
なかなか振り返ることもなく、遠い記憶になりつつある3.11。もちろん忘れるわけではなく、その時の記憶は鮮烈に残っています。
古い写真をあさっていたんですが、その中からハウスの骨組みの写真が出てきました。
3.11は就農した年度の終わりの月
いきなり大失敗だった1年の最後でした。
1年目はトマトを作るにもハウスもなく、研修終わって就農ギリギリまで農地も確保できていなかった状況。なかなか厳しいものがありました。
そんな時近所の方に耕作放棄地があるから使っていいよと。そこを開墾していまにいたります。
そのお借りした農地に立てたのがそのハウス。中古で手に入れ、知り合いの工務店に手伝いをお願いして少しずつのセルフビルド。
現在トマトを作っているハウスの原型。
3.11はこのハウスを一人でつくっている時。
ネジとかちょっとした部品が足りなくてホームセンターにいました。
それぞれ100個以上のボルトやワッシャーとかをだるま落としを積み上げるように売り場で数え、買い物かごに入れレジ台にのせたときです。
突然の大きな揺れ
棚から商品が落ち、まわりでは叫び声も聞こえていたような気もします。
慌てて外に出ると、看板のついた大きな支柱がぐらんぐらん揺れていて、これは本当にやばいなと震えた記憶があります。
どれぐらいだったんだろう、時間の感覚はまったくなく、とりあえず家に携帯から急いで電話。その当時はスマホではなくまだ携帯(笑)
呼び出し音は鳴るものの、出る気配なし。2度3度試しましたが、突然携帯も通じなくなり、さらに不安を感じたことは否めません。
買おうと思って選んだ商品は名前と連絡先だけ告げ、買いに来るからと預け、いそいで軽トラで家路に。
家から10kmくらいのホームセンター。帰り道も余震が続き、そのたびに車をとめ様子見。
よく覚えてないんですが、住宅街でもブロック塀がくずれていたところはほんの数箇所だったような気がします。
家についてみると、漆喰の外壁にはヒビがはいり、玄関の引き戸は若干歪んだのかちょっと開けにくい。
家に入ってみると戸棚から飛び出した食器が割れまくり。納戸の棚のものも下に落ち、内壁にもヒビ。
そんな中でかみさんとこたろう社長、秘書小麦が無事でホッとしました。
※その時まだ猫2匹は飼っていません。
あまりの揺れで、携帯がなっていたことには気がついていたけど出れなかったとのこと。そりゃそうだ。この惨状を見れば。
不便ながらもいつも通り
幸い停電も断水もなく、その後ずっとテレビを見ていた記憶があります。もちろん映像はトラウマになるレベルのもの。
これからどうなるんだろうという不安しかなく、とはいえ、今やれることを粛々とやっていくしかないと、ある意味覚悟を決めました。
怪我もなく、建物も致命的な損傷もなかった、そしてライフラインが問題なく動いていたのが幸いで、不便ながらも通常通りの生活をできていたような気がします。
同じ那須町でも地域によっては停電や断水もあり、運がよかったとしかいいようがありません。
観光地だけに、その後の春休みは大打撃。
特に危ないわけでもないですが、自粛ムード真っ只中なのに観光にくるお客様もいるわけでもなく。
賑わうはずの春休みがすごく静かでしたね。
こたろうファームは時期的に作物もないので、そういう意味では特に慌てることもなかったのですが、春休みの状況を見て、夏はどうなるんだ?という不安は確かにありました。
仲間が増える
そんなとき、なんとなく、那須高原で仕事をする異業種の仲間が集うようになり、一気に交友関係がひろがりました。
農家、ペンション、レストラン、物販、観光施設、ホテルなどなど、震災後の悲惨な状況を感じていた仲間とのつながりができたのは、まさしくこの時期。
お互いどれだけ助けられたことか。
仕事も暇なので(笑)、頻繁に会い、BBQやったり飲んだり。
状況が最悪なのに、あまり落ち込むこともなくこれから那須高原をどうしようか、という希望に満ちた会話が多かったような気がします。
振り返っても仕方ない、進むしかないと思っていたんでしょうね。
それから11年
那須から離れた仲間もいますが、ほとんどが当時の仕事のまま今現在もがんばっています。
コロナ禍ということもあり、会う頻度は随分減りましたが、今でもたまに一緒に遊んだりします。
当時の話をすることはほぼないですが、同じ境遇で苦労したことはお互い十分すぎるほどわかっています。
その気持が私達を含め、みんなの心の支えになり、このコロナ禍でもがんばろうと思っているのかもしれません。
何かが起きたときは、もう戻ることのできない状況になる場合がほとんど。大なり小なり。
でも、そこにとどまることなく、一歩でも前に進めれば、きっと明るい未来が待っています。
3.11と比較して今がどうとか考えても意味はなく、明日からどうするのか、どうしたいのか、ということを考え、全力で生きていきたいなとつくづく思います。
生きていることに感謝しつつ
生きるための糧をこれからも作り続けます。
この投稿をした生産者
栃木県 那須町高久乙