私は、20歳で就農しました。
父方、母方のどちらの祖父も農家。父方は近所に野菜を配る社交性にとんだおじいちゃん、母方は仕事を黙々とこなすおじいちゃん。対照的な2人に可愛がってもらい農業に就くのは自然なことでした。
【純粋に農業が好きだから】
父親もその気持ちに応えてくれました。49歳で農協を退職して専業農家へ転身。数年後、福祉施設を立ち上げると、就労支援の一環として障害者の方々を農園に迎え入れるなど、先を見据えた農業の新しい形を作ってくれました。
父からは農業は休みのないものと教えられました。でも、それは僕にとっては全く苦になりませんでした。農業が純粋に好きだったからです。ただ、大好きな農業だからこそ、生産したキュウリや米の評価が気になるようになりました。そんな時、ふだんから良くして頂いていた武雄市役所の方からパクチー栽培の提案があったんです。
自作野菜の評価が気になり、沢山の店頭販売に参加するなかで、他の生産者や農園のブランドになっている例をたくさん知るなかで、こんな思いが芽生えてきました。
僕もそんな野菜を育てたい。作物がブランドとして育っていくところに魅力を感じていました。そこに現れたのが、パクチーでした。
【パクチーのブランド化を目指して】
武雄市はすでにレモングラスのブランド化に成功し、次の特産品をパクチーと決めていました。ただ、パクチー栽培は未経験、周りにはパクチーを栽培している方はいない。不安でいっぱいの中、ある市役所の方が「一緒に頑張ろう、武雄を盛り上げよう」そんな熱い想いに共感し、チャレンジを決めました。
しかし、実際に初めてみても失敗の連続、3年間は試行錯誤の日々でした。
「毎日、問題が起きてはミーティング」パクチーは、季節による反応が全く違う、もともとパクチーの旬は春と秋、特においしいのは寒さを超えて育った春収穫のパクチー。なかでも、夏は本当に難しかった。夏場はパクチーの本来ある性質上育ちにくく、高温の時間帯が一定期間続けば花が咲いてしまいます。水やりが大事だと気づくまで1年間かかり、2年目から少しずつ水やりのノウハウが蓄積され、3年目にしてやっと栽培が成功するようになりました。夏場のパクチー栽培に成功したとき、スタッフと一緒に泣いてよろこんだことを、今でも思い出します。
ほぼ有機主体で作ればエグミが少なく、ほのかに甘みがあるおいしいパクチーになります。香りは意外にも葉からは香らない。根から強く香る。栽培で最も大事なのは土づくり。
どういうパクチーにするのか市役所の人と話し合いました。岡山県にクセをおさえたマイルドなパクチーで成功している農業法人があります。そういう産地と競合しては勝てない。じゃ、パクチー好きをうならせるような、クセをいかした強烈なパクチーを作ろうということになった。根っこが大きく育つようなふかふかした土を作って、ガツンとくるパクチーを育てようと。
販売と宣伝は武雄市役所の方が担ってもらった。初の卸し先はパクチーすきの聖地として知られるレストラン「パクチーハウス東京」。そこから、口コミで評判が広まり、販売は全国各地に拡大、今では100店舗以上の飲食店に出荷しています。6次化にも取り組んでいます。パクチー紅茶、ピリ辛パクチー緑茶(相川製茶)。
料理人との交流も積極的にさせていただいてます。薬味的に添えられるのが今までの一般的な食べ方。料理人さんと一緒になり考えることで、そこを変えたい。たとえば根っこの素揚げ。香ばしさと歯ごたえを楽しめて、噛めば噛むほどパクチーの味がしっかり味わえます。かき揚げはパクチ好きの中で、ぱく天と呼ばれる人気の料理に育っています。
【パクチーをブームではなく、文化に!】
大好きなパクチーだからこそ、脇役やブームなどではなく、日本に深く根付くパクチー文化を作りあげる。それが僕の夢です。その熱い思いを胸に日々の農作業に邁進しています。
【さらに、新たな可能性を追いかけて】
現在、江口農園のこだわりの農産物として、土作りにこだわり栽培しているバジルホラパー、バジルガパオ、中国野菜・タイ料理には欠かせない国民的な代表野菜カナーと空芯菜はシャキシャキとした触感とエグミがない味・柔らかい歯ごたえを追求しています。沢山求められてる方がいるのに手に入らない野菜、品質や味が悪く求めているものとはあまりにもかけ離れている野菜、飲食店が「江口農園でなければだめだ」そんな飲食店の満足度ナンバーワン農園を目指してスタッフ一同日々挑戦とチャレンジを続けています。ぜひ、一度そんな江口農園のこだわりお野菜たちをお召し上がりください。やみつきになりますよ!!